公図とは、法務局に備え付けられている地図のことで、土地の区画が分かるように地番と筆界を示したものをいいます。
こんにちは、土木公務員ブロガーのカミノです。
みなさんの業務では「公図」を使ってますか?
今日は、公図について、そのなりたちを追いながら、公図とは何なのか?公図の意義や性格を解説します。
公図とは?
公図とは、法務局に備え付けられている地図のことで、土地の区画が分かるように地番と筆界を示したものをいいます。
実は、「公図」という言葉は俗称なので、明確な定義がありません。ということで、私独自の分類でご紹介します。
大きく分けると、14条地図と、地図に準ずる図面の2種類がありますが、今回の記事では、おもに地図に準ずる図面のことを解説します。
14条地図は、不動産登記法の14条に規定されていることからそのように呼ばれています。地図に準ずる図面だけを公図と呼ぶ方も多くいらっしゃいますね。
正式名称 | 精度 | 元になるもの |
---|---|---|
地図(14条地図) | 高い | 地籍図、法務局の測量データ、土地区画整理図など |
地図に準ずる図面 | 低い | 旧土地台帳附属地図(旧公図) |
(地図等)
不動産登記法
第14条 登記所には、地図及び建物所在図を備え付けるものとする。
2 前項の地図は、一筆又は二筆以上の土地ごとに作成し、各土地の区画を明確にし、地番を表示するものとする。
3 第一項の建物所在図は、一個又は二個以上の建物ごとに作成し、各建物の位置及び家屋番号を表示するものとする。
4 第一項の規定にかかわらず、登記所には、同項の規定により地図が備え付けられるまでの間、これに代えて、地図に準ずる図面を備え付けることができる。
5 前項の地図に準ずる図面は、一筆又は二筆以上の土地ごとに土地の位置、形状及び地番を表示するものとする。
6 第一項の地図及び建物所在図並びに第四項の地図に準ずる図面は、電磁的記録に記録することができる。
また、旧土地台帳附属地図の元になった古い地図たちのことを含めて「公図」と総称することもあります。その場合は、「字図」とか「絵図」とか「切り図」とか地域ごとの古い言葉で呼ぶのが一般的かと思います。
実際に法務局でとれる公図はこのようなものです。
地番と筆界が示されているだけのあっさりした図面です。
地番というのは、登記所が定める土地の番号のことで、普段使っている住所(住居表示)とは別のものです。
公図は不正確なもの
公図は、現在の土地の形状や面積を正しく表していないことがよくあります。
地図として認められていない「地図に準ずる図面」は不正確なのです。
つまり、地震や水害によりブロック塀やフェンス・擁壁などの境界が壊されてしまったときは、地図をもとに、現地で境界を復元できないということです。そのようなものを、「再現性がない、復元力がない」といいます。
要は、正確なものかどうかですね。
みなさんも公図が現況と合っていないとか、見づらいとかで、苦労された経験があるかもしれません。でも、公図なんて役に立たん!と突っぱねるんじゃなくて、公図の特徴と性格をわかってあげればとても役にたつモノになるんです。
そのためには、公図の歴史を少し振り返って、学んでみることが必要です。
公図のなりたち
公図のなりたち、歴史をざっくりと振り返ってみます。
大和時代の「租・庸・調」、奈良・平安時代の「荘園制度」など、いつの時代も、統治者は農民から税を納めてもらうことで統治を成り立たせていました。いつの頃からか、租税は土地(田んぼ)にもかかるようになりました。やがて、畑や屋敷にも税がかかるようになります。
ですから、大昔から、土地の「見取り図」のようなものはあったと思います。
ただ、筆界を示す公図のはじまりは、徳川吉宗が1726年に行った「享保検地」と呼ばれる太規模な検地から始まります。目的は、おなじく地租徴収ですね。太閤秀吉さんも太閤検地をしてたりしますけどね。
この享保検地の際に「検地帳」が作成され、字名、地番、土地の等級(上、中、下)、面積、所有者が記録されました。この土地の情報が一筆(一行)で記載されていたので、一個の土地を「一筆」と呼ぶようになったといわれています。
江戸時代には、藩による「国絵図」、村による「村絵図」、検地をして地番を書き込んだ「地引絵図」などが作られました。大した測量技術が無い時代ですから、どれも道や河川と農民の土地を大雑把に描いたものだったようです。
江戸時代も課税の対象や、その方法が統一されていませんでした。近代に入ると、すべての土地を統一的な方法で把握して課税することを目指し、地租改正が実施されます。これが現代の課税方式に繋がるものになります。
明治6年、地租改正にて、全国で地籍の調査が進められ、一筆ごとの土地に地価が設定されていきました。
そのとき作られた地図は改組図とも呼ばれ、一筆単位の「野取図」または「一筆限図」、字単位の「字限図」(あざぎりず)、町村単位の「町村図」の3種類に分けられます。この3種類を「野取絵図」または「字図」と総称され、土地台帳に付属する旧公図の原型となりました。
明治17年、新たに土地台帳が作られることになり、役場がこれを管理するようになりました。土地に重複や脱落がないか確認する地押調査がおこなわれ、課税台帳には付属地図として、粗悪だった絵図を更正した「更正図」または「地押調査図」が備え付けられました。多くの田舎では、精度の悪い絵図がそのまま備え付けられたことが想像できますね。
明治22年、完成した新しい土地台帳付属地図(更生図)が今でいう旧公図と呼ばれるものです。
明治29年、役場から税務署に管理が移ります。その後は、税務署が地租事務をすることになりますが、都市化などが進む中で、測量技術と地図の精度の重要性が高まり、税務署主導で地図作成技術が広まっていきました。
そして、昭和25年、土地台帳と附属地図が法務府(登記所)に移管されて、ほぼ今のかたちと同じ管理体制になっています。
明治6年の地租改正が近代租税制度の始まりであり、公図の原型をつくった始まりでもあります。
公図が不正確な理由
地租改正によって作られた公図は正確ではありません。
理由はいくつかありますが、簡単に整理してみます。
測量技術が未熟だったから
単純に、測量技術が今ほど発達していません。
距離、角度、面積を正しく測ることができませんでした。
測量の原則に反しているから
測量技術がないことに加えて、一筆単位のものから字単位に合体させて、それらをまた合体させただけで町村図を作ることになるので、整合性がとれなくなるのは当たり前ですよね。
全体を測量してから詳細を測量していく現代の測量法とはまったく逆の方法です。
一般人が測量をしたから
一般の作業員や農民によって測量をされました。専門家がほとんどいなかった時代ですし、専門家だけで全国の土地を測るのは無理がありましたね。特に山林や荒原は、目測や歩測によるものだったようです。
恣意的に測量を少なくしたから
地租改正によって、地積を定めるということは、税金を定めるということですから、農民は正確な調査に抵抗するはずです。なので、農民の自主的な調査に任されることになりました。
「縄のび」という言葉を聞いたことありますか?実測面積が公簿面積より大きいことをいいますが、語源は、検地の際に租税を減らすために、実際よりも長めに目盛りをうった縄を使って、面積を少なめに測量したことに由来しています。
地租改正のときも、同じように少なめに測量したのではないかと思います。
いろんな地図との違い
なりたちを読んでもらったら、筆界を表す地図がどれだけ多く存在しているか理解してもらえたかと思います。それらは今も地域ごとに様々な形で残っています。
また、似たような図面がたくさんありますので、こちらの記事で、それぞれの図面を解説しました。
私のイメージで解説しております٩(ˊᗜˋ*)و
公図の取得方法、見方・読み方
公図は、他人の土地であっても誰でも、法務局で一筆500円くらいで取得できます。
法務局に行くだけで難しいことはありませんが、解説記事を置いておきます。
また、公図の見方・読み方についてはこちらの記事で解説しました٩(ˊᗜˋ*)و
公図をとってきて、なんとなく見ていた方は参考にしてみてください。
公図を使うときは
公図がどのようにできたのか、その歴史を知れば、公図との付き合い方が見えてきたのではないでしょうか?
正確な測量をもとにしていないので、距離、角度、面積は正しいとは限らない、というか正しくないです。
しかし、直線や曲がり点の有無、土地の形状、水路や堤防などの有無、隣地との位置関係はかなり正確です。
判例でも、「距離、角度、方位、地積といった定量的な面についてはそれほど信用できないが、隣接地との位置関係や、筆界が直線か曲線かなどという定性的な面については、かなり信用できる」とされています。
公図をあまり蔑ろにしてはいけません( ゚д゚)
公図は地域の人々が協力して作り上げたものです。そこに線があるということは、昔はそこが境界だと住民たちが決めたはずなのです。
「公図に載っている道がここで切れる理由は?」「現地で水路がなくなっているように見えるけど本当なの?」「公図にあるコレが現地にもあるのでは?」「ここの折れ点には意味があるのでは?」
いろんなものが読み取れます。
土地に執着するのが人間ですので、土地や境界のなりたち、地域の歴史の重みを感じながら、公図(字図)には向き合っていくべきかと思います(*´ω`)σ ヨシ!
そのくらい土地問題、境界問題には、時間とエネルギーをかけなければならないのです。
では、今日はこのあたりで。
またぬん(*’ω’*)ノ
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